文化という土壌
先週日曜日。地域の子ども集団、少年団で餅つきをしてきました。←保育園でもやったから、今年で3回目
少年団育ちの大学生指導員の子たちと子ども達、
何も言わなくてもスルスルスル〜っと準備やつきをしてくれて、
親は米の蒸しを手伝っただけで、美味しいお餅を頂きました。
準備を大人がやって、つきだけ子ども達が「体験」する餅つきはよくあるけど、ここはそうではないから、こういうことが軽く出来てしまう。
餅つきって、やったことのある人しかわからないことなんですが、
お湯をタイミングよく沸かして、臼や杵をつける桶、手水や餅とり湯に使うとか、
具に按配よく餅を入れるとか、
みんなが食べられるように米の蒸し時間を見ながら目配りするとか、
そういう気働きの総合力をチームでやる、みたいな行事なので、一般的には大人が全部やってしまう。
でもここはそれすら子どもの力でやろうとし、そこそこ出来てしまう。
失敗が許される場だから、というのもあるし、異年齢だから年上の人たちを生きるガイドブックにして、按配、というのを自然と身につけていくのでしょう。
アレコレと指示されてしまうとこの「自然に」が身につかない。
学びや成長というのは、
その子1人を伸ばすことは不自然で無理があり、
文化という土壌をつくると、大人も含めて育ちあっていく。
それを改めて感じた日でした。
そう出来ない環境にいたらどうしたらいいの?
という声も聞こえてきそうですが、
ここでいう文化という土壌は、
家庭でも、
子ども1人でも、
いいのではないかと私は思っています。
大人の側に、
これが好きだとか、楽しいとか、得意だとか、
それを話すと思わず頬がほころぶとか、
そういうのがあって、
それを、
家庭で子ども達と共有したらいいのではないかなと思うんです。
好きになった過程やその歴史も含めて
楽しさを共有していく。
その熱がまた伝播して、
子どもからも自分のやりたいことや好きなことを発信し、
大人が受けとめる、そしてまた発信する、
その相互の関係が文化という土壌をつくりだし、
また新しい人間関係に発展していく余地も生む。
そんなように思います。
今日は庭の植物を空き容器にいけてみました。
透明だと背がバラバラでも見えて楽しい!